堀内洋服店 | 心斎橋のオーダースーツ専門店

堀内洋服店 | 心斎橋のオーダースーツ専門店

創業明治28年 ブリティッシュスタイルを基調としたビスポークテーラー

堀内洋服店の歴史

堀内洋服店社史

当社は、文明開化から幾ばくもない明治二十八(1895)年、大阪の地にて紳士服店を開業しました。
以来、紆余曲折を重ねながら現在は大阪心斎橋の地にて洋服店を営んでおります。
初代店主 善吉は、大阪での開店から渡米、シアトル店・サンフランシスコ店を経て大阪に帰り洋服店並びに洋服学校(米英洋服研究所)を開設、大正期には関西著名人の方々の洋服を承ってきました。
第二代店主 寅蔵は、初代善吉の娘婿として家業を継承し、また子宝にも恵まれそれぞれに系列店の店主として立ちゆくように尽力しました。
第三代店主 富男は、第二次世界大戦での休業を経て、戦後あらためて洋服店を起こし生野店、あみだ池店と店を発展させ 昭和三十五(1960)年に現在の心斎橋に店舗を構え会社組織としました。
現在 第四代店主として、愼三が弟・邦英とともに家業を継承しています。
手前味噌ながら当社の祖、堀内善吉の波乱に富んだ人生をここにご紹介させていただきます。
 

堀内善吉 伝

堀内善吉は、明治●年●月●日に奈良県箸尾町に堀内の男として生まれました。
堀内家は、百姓として生計を営んできました。善吉も農家の男として少年時代を過ごしてきました。
もとより 文明開化から日も浅く奈良盆地の中央に位置する生家では、学校制度も整わず江戸時代と変わらぬ暮らしでした。
さて 少年期より善吉は、書物に親しむこと多く家業の農業に力が入りませんでした。
本ばかり読んでいる善吉の将来を心配した父親は、家業に身を入れるのに嫁をもらうことを考えました。当時は、親の意向のみで結婚が決まりました。
嫁には、近在の農家より女という人が来たそうです。ところが善吉は百姓嫌いにてここで女と関係を持つと一生田畑に縛り付けられると思い 嫁を遠ざけ相変わらず読書三昧の日々でした。
数ヶ月で  女も愛想を尽かし実家に帰ってしまったそうです。
結局 善吉を百姓にすることをあきらめた両親は、当時まだ珍しかった巡査になるように進めました。
さて 明治20年頃の日本の事情をお考え下さい。
明治維新より我が国には行って来た西洋文明は、文明開化のかけ声とともに江戸時代からの生活・習慣を大きく揺さぶりました。 明治政府は公用の服装を洋装とするように 1872(明治5)年11月12日に法令を発しました。(この法令の発布日を現在の紳士服関連団体は洋服記念日としています。)
それ以後日本人の洋装姿が都会ではちらほら見かけられるようになってきました。ただ あまりにも急速に西洋の生活習慣を取り入れようとしたために洋服作りにおいても 非常に稚拙な技術でした。
堀内善吉が巡査(今の警察官)になって官給の制服を支給された時よりこの物語は始まります。

堀内善吉は巡査として勤務しました。ところがこの当時の制服は非常に出来が悪く一日の勤務が終わる頃には体に合っていない服のため疲労困憊のありさまでした。この経験が善吉の将来に大きな関わりを持つことになります。
生来 物づくりの好きな善吉は警察官になってもその機構になじめず僅か数ヶ月で巡査を辞めてしまいました。以後、生家にて洋服関係の書物を読みながら怠惰な日々を送っていました。百姓にもならず巡査も務まらずまた、せっかくもらった嫁にも実家に返られてしまう善吉を両親はついに見放し 大阪のさる商店に丁稚に出そうとしました。人に使われることになじめない善吉は、警官時代の経験から洋服を自分で作ってみようと考えました。
彼は、まず洋服を知るために 神戸に行き外国人の古着を譲り受けこれを研究してついに洋服店を開業しました。時に明治28年です。

このころは、洋服店もまだ少なく 善吉の店はそれなりに発展しました。家業が充実すると 顧客の紹介により所帯を持つことになり、滋賀県長浜町の家の女『孝』を妻として迎え二女をもうけました。
孝女は、非常なしっかり者で店の経理・運営を引き受け 善吉のむら気のある性格を補完したため商売も順調に発展しました。

ある日 京都の顧客が「おまえとこで作った服を着て会合に行ったら京都の洋服屋にバカにされたでえ」と苦情を言いに来ました。生来短気な善吉はすぐさま汽車に飛び乗りくだんの洋服店に乗り込みました。
「同じ商売人として同業者を誹謗するとは何事か」と怒鳴りながら店の机を手のひらでたたきつけあまりの剣幕にその店の店主は謝ったといいます。さて溜飲を下げて大阪行きの汽車に乗り込んだ善吉、今見てきた店主の洋服を思い返すとなかなかの出来で今自分の店で作っている服が見劣りすることに気が付きました。
しかし行きがかり上、今更服づくりの教えを請うわけにもいきません。

大阪の店に帰った善吉は、妻の孝に その日のあらましを話しました。孝は「確かにあんたの作る服はあんまりカッコええことないなあ。でももっとええ服作ろと思うんやったらちゃんと勉強したほうがええな。」と言います。数日後 善吉は妻の孝に「どうせ勉強すんねやったらわしはアメリカへ行って来る」と言い出しました。

当時 世界の文化の中心は、アメリカだと一般には考えられていました。ところが孝は「ほんなら私もいくわ」と言い張ります。「子供はどないすんねん。」と問い返しますと「あんたの弟に預けたらええやん」と答えます。結局 妻の言い分が通って大阪の店をたたみ二人でアメリカに行く事になってしまいました。

当時 渡米するには北回り(アリューシャン列島沿い)のルートしかなく貨物船に便乗して一ヶ月以上かかったそうです。ともかく1903年、善吉・孝の夫婦は西海岸のシアトルに第一歩を印しました。上陸するとき商売柄、服装だけはきちんとしていたため先に渡米していた日本人移民の人々に頼りにされて非常に困惑したそうです。もちろん英語の知識もなく持っていったお金もすぐに乏しくなりました。そこで夫婦は、裁縫技術を生かして露天の洋服修理を始めました。このときが一番苦しかったがまた今から思い返すと楽しかったと後年、善吉は語っていたそうです。

シアトル店舗約3年後には、シアトル市マディソン街に店を構えるまでになりました。シアトル店舗約3年後には、シアトル市マディソン街に店を構えるまでになりました。時に1906年です。以後順調に稼業は発展し1年後には従業員6人を数えるまでになりました。
三女 順子が生まれたのもこの頃です。善吉は、店主として現地にとけ込むべく通称もジョー・ホリウチとしていました。

さていよいよ渡米の目的である洋服の勉強ということで善吉は店を妻にゆだねて、単身ニューヨークに向かいました。大陸横断鉄道で2日間の旅です。
1907年にニューヨーク・カッティングスクールを卒業 翌1908年3月にはアメリカン・ファッション・カッティングアンドデザインスクールを卒業しました。
西海岸へ帰った善吉は、当時シアトルより大都会であったロサンゼルスに店を移しました。営業をしながら帰国後の開店資金を積み立て日本の弟に送金していました。

サンフランシスコ大地震1910年ロサンゼルスは、地震に襲われました。サンフランシスコ大地震1910年ロサンゼルスは、地震に襲われました。善吉夫妻も荷物を担いで逃げたそうです。このとき善吉自らの家財は捨て置き、客の洋服を持って避難しました。地震が収まって戻ってくると元あったビルは隣の敷地まで移動していました。数日後、新聞広告にてお客様の洋服は無事に保管してある事を掲載すると顧客は着の身着のままで避難していたため非常に喜ばれました。地元の新聞も「日本人は、非常に律儀である」と報道され面目を施しました。
さて店舗の壊れたこと・日本へも十分な送金をしていることからいよいよ帰国することになりました。

ところが 二人の子供を預けている弟に送金した店の開店資金はすべて弟が使い込んでいたため善吉夫婦は、預けていた2人の子供を引き取り3人になった娘を育てながら改めて訪問販売の洋服屋を始めたのです。

努力の甲斐あって●年後の●●●●年には、大阪市西区靱中通り1丁目20番地にて堀内洋服店を再開しました。それ以後はアメリカ帰りの洋服屋という評判も手伝って順調に発展を重ねました。

大正4年には、大阪市東区谷町4丁目に《米国洋服学校》を設立し洋服業のかたわら後進の指導にも当たりました。また 大正10年には、故郷である奈良県北葛城郡箸尾町《米国洋服研究所》を開設しました。

新聞社の●氏が大阪の講演中、丹後地震が起こりました。そのとき●氏は、怪我をされ当家にて静養されました。その折銚子の洋服店のご子息江畑謙介氏を紹介され受け入れることにしました。江畑氏は、後に東京文化服装学園で紳士服の教授として当家で習い覚えた裁断法を後進に伝えることになります。

昭和3年昭和帝のご即位の式典が催されました。

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